2015年9月7日月曜日

被災地ボランティア5日目

文責:宮崎学園短期大学 田代茜
 今日は、はじめに桜の聖母の教頭先生に話を伺いました。震災当時どのような行動をしたのかという内容を聞きました。私は、来年保育士として就職するので教育現場でのマニュアルがとても参考になってくると感じました。

 私がこの中で、すごいと思ったことは、判断とスピードがとても早いということです。震災があった次の日に工務店を確保して、工事をもうその日にスタートしたそうです。2週間で工事を終わらせて新学期にはスタートすることができたそうです。
 福島では、表土改正工事をしています。その工事とは、グランドに溜まった放射能の表面をけずって、一つを深く掘ってその中に埋めるという作業を行っているそうです。
(3.11時の行動について語る教頭先生)

 震災がおこってすぐの時は、雪だるまを使って遊んでいる姿を見た3歳の子どもが「放射能だらけの雪だるまは作りたくない」や空気の入れ替えで窓を開けようとしたら「放射能のついた風が入るからしめて」と言われたりしていたそうです。子どもたちが話していたと聞いて、すごく胸が痛くなりました。

 次に住職さんの話を聞きました。この方の話を聞いているなかで、印象に残っていることは「国は国民をまもらない」という言葉です。情報がなく、苦労していた人の言葉はすごく重たいなと感じました。今の福島の問題としては、放射能のことがいいづらくなってきているそうです。また、放射能は見えないから危機感がどんどん薄れていっているというようにも言っていました。また、マスコミにおいても事実をしっかりと報道して欲しいというように言われていました。
驚いたこととしては、100万人に一人として言われていた子どもの甲状腺癌が137名という数値が最近出たそうです。

今日は、6人の方のお話を聞きました。様々な話がある中で、いろんな情報があり私はとても戸惑いました。この状況が福島では続いていて、何を選択したらよいかがわからないというような現状が残されていることを知りました。






文責:松崎喜代治
今日は桜の聖母小学校に行って教頭先生からお話を聞きました。震災で幼稚園舎が全壊して小学校の一階を改築する必要がありその工事を春休み中に終わらせたとのことでした。対応がとても速いと思いました。震災後転校、休学した生徒が低学年を中心にたくさんいたそうです。


 次に新設された幼稚園舎に行きました。園舎の中に砂地があり、砂場や遊具があって外で遊べないことに対する対策がとられていました。


チーム二本松の佐々木さんから話を聞きました。震災当初お寺に避難されてきた方と一緒にテレビで原発が爆発する映像を見たそうです。すぐに爆発前の映像に切り替わったそうです。その映像を見て避難されたと聞きました。爆発した時にヨウ素剤配る必要があるのに一部の地域でしか配布されなかったのに配布されていない地域の医師、薬剤師の方は家族に配られていたそうです。

   

放射線に対する意識の差が大きく他の人に思うように意見が言えないこと、震災から一度も孫に会ってない人がいること自殺者は増加していることなどを聞いて被災した方の状況は改善されていないと思いました。





文責:宮崎大学1年 井上翔
 今日は、とても多くの方から様々な話を聞きました。最初に桜の聖母学院小学校の教頭先生に震災後の学校の取り組みを聞きました。記録と記憶を忘れないようにし、それらを数年ごとにまとめなおすことが必要だそうです。学校として震災の次の日に工務店をおさえてすぐに工事をスタートするなど私立高校だからこそ迅速な行動ができたそうです。詳細な防災マニュアルを作って配布するなど、非常事態に備えた体制が整っていると思いました。教頭先生のお考えでは、子どもたちに震災が無かったかのように前向きに考えてもらうことが大切だそうです。スクールカウンセラーがいないことにはびっくりしました。
 (室内の遊具)

 修道院でシスターに話を聞いたところ、「いくらお金があっても意味が無い」や「立派な家をもらってもすることが無い」など被災者は複雑な思いでいることが分かりました。しかし仮設住宅を訪問したに対し「あなたたちが来てくれてから話せるようになったよ」など支援が力になっていることを嬉しく思いました。
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 住職兼幼稚園の理事長である佐々木さんの話は、僕自身すごく感銘を受けました。佐々木さんは「国は国民を守んねぇんだなぁ」というお考えのもと自分が動くとおっしゃっていました。「何が正しいか分からないけど守りたいものがある」という言葉が印象的でした。作業員として原発に行く父親が、息子に「地球を守りにいく」というなど津波や放射線、風評被害によって苦しみ、希望を失いながらも前を向き懸命に生きようという姿が見えてきました。子どもを守ろうと必死な母親を含め、被災者はすごく勇気があって力強いと思いました。このような方々の力に少しでもなることができれば良いと思います。
 
 災害ボランティアセンターの元GMの神さんには、震災後からの活動を聞きました。福島大学が避難所となった際には、避難所を自分の家と思って生活してもらうことを目指していたそうです。イベントや足湯という活動を通して避難してきた人々が少しずつ笑顔になっていく様子が嬉しかったそうです。被災者の笑顔が支援者のモチベーションになっていると思います。
 
 福島北高校の斎藤先生からは学校内でも放射能への意識はそれぞれで、意識が高すぎる生徒や先生が白い目でみられるそうです。同じ被災者同士なのに意見の違いで傷つけ合っているという現状が悲しく思えました。しかし、そういうことが起きているのも全て東日本大震災のせいであるため、あらためて震災のこわさを思い知りました。

 今日まで多くの方の話を聞き、少しずつ福島のことが分かってきました。残りの日数で更に多くのことを学び、自分の中で考えていきたいと思います。


            


文責:宮崎公立大学1年 日高 綾 
 今日は6人の話しを聞き、少し頭がパンクしそうになってます。人の数だけ意見があるなと感じました。
 
 まず聖母学院小学校に行き、教頭先生とシスターの話を聞きました。学校で震災があった時、とても早く状況判断や対策をとっていてすごいなと思いました。驚いた事は、震災前と震災後ではあまり変えた事が無いという事です。学校に常駐するスクールカウンセラーもおらず、避難訓練も震災前と変わらずに普通にお粉ているそうです。子どもは大人が思うより柔軟性が強く、ストレスを感じていないので、何事も無かったように自然に接しているそうです。震災の事を忘れては行けないが、思い出させてはいけないということでした。そして大人の側が少しでも前向きに、希望を持って接する事が大事だと言っていました。
(聖母学院小学校で説明を受けている様子)

 次は、住職の方にお話を伺いました。その中で初めて聞くような過酷なものを聞くことが出来ました。もう4年半も経っていて、みんなが疲れてきている。また、震災後お孫さんにもう会えないお年寄りの方々が自殺することが多いということでした。そして、やっぱり原点は「笑顔」だと仰っていました。
(福島市の除染プラザにて放射能の除染の説明)

 そして夕飯を食べながら、福島大学卒業の災害ポランティアセンターの神さんと福島北高校の先生をされている、齋藤さんのお話を聞きました。神さんは、災ボラを創設された中の1人でいらっしゃるということと、実際に被災された方ということで、震災のボランティアに始めから関わっていました。避難している人の生活などを詳しく聞く機会は初めてで、とても貴重な体験になりました。ただボランティアをされるだけでなく、環境を整えたり様々な工夫をして心のケアを行っていて素晴らしいなと感じました。避難所を本当の家だと思ってもらおう、避難所の人々を家族だと思ってもらおうという心を持ち、学生が中心となって企画や活動を行っていたそうです。始めは笑顔が無かった方たちに笑顔が出てきて、1ヶ月半という短い期間であったにも関わらず、みんなが別れの際号泣したという話を聞き、避難者たちの気持ちを読み取りそのニーズに応え、声かけであったりする気配りをしているという姿、私もこれからボランティアをする際に見習いたいと思いました。






5日目文責:宮崎公立大学1年 甲斐 征樹

今日はとにかくいろんな人の話を聞きました。

これまでもいろんな人から話をきいていて頭がパンクしそうです。

直也さんから、「話を聞いた人の話が全てではない」とおっしゃっていた意味がようやく分かりました。


午前中は桜の聖母学院に行き、教頭先生とシスター熱海さんから話を聞いた後にチャペルや修道院を見学しました。その後、福島市の除染プラザ、二本松の住職の佐々木さん・福島大学災害ボランティアセンター元GMの神さん、高校教師の斎藤さんから話を聞きました。
(シスターが資料館を説明する様子)

今日の全体の話で感じたことは、人によって放射能への考え方や感じ方は異なりますが、全く異なるという訳ではなく同じ意見や似たような意見がたくさん出てきたということです。

よく出てきた表現として「3.11から何も変わっていない」「大人の発した言葉を子どもは受け入れ、それが自然で当たり前のこととして捉えている」「避難として福島を離れることも難しいし、離れたとして戻ってきた時に居場所が無い事もある」といったようなことです。
(福島市役所にある放射線についての説明)

福島に来てたくさんの震災の体験談や思いを聞いてきましたが、全員最終的におっしゃるのは「震災前の日常に戻りたい」というようなことで、現在は普通過ごしてる感じだったけど実際は震災からずっと苦しんでいることが分かりました。

今日も夜に押山さんが来てくださったのですが、毎回押川さんの話す言葉一つ一つがとてもストレートに現地の声として響いてきます。

「3.11あの日のまま 何か状況変わった?」

「この約5年間は何だったの?」

それを聞きながら、これが現地の本当の声だと思うし一番宮崎に帰って伝えなければならないことだと感じました。

(震災の時の学校の動きについての話を聞く様子)

桜の聖母学院では、震災後に子どもが発したという「放射線だらけの雪だるまなんか作りたくない」「放射線ついた風来るから窓閉めて」などの声を教頭先生が紹介されていました。

明日は保育園で貝殻を渡して浪江町に行く予定です。
自分は明日で最後の活動となり、実際に被災した地域を見てまわるのは初めてなのでしっかり自分の目で見て感じて帰りたいと思います。







文責:小玉直也
午前中、桜の聖母小学校の教頭先生から震災直後の子どもたちを守るため奮闘した様子。地震の対策から放射能対策に変わっていった福島市の現状など、リアルな報告がありました。
(震災当時の放射線量)

中でも深刻だと感じたのが、校庭の表土の除染が終わり線量が下がったあと、冬に降ってきた雪で雪だるまを作ろうとしたら、子どもたちが「放射能の混じった雪ダルマは作りたくない!」とか暑い日に窓を開けたら、「放射能の入った風にあたりたくないから閉めてください」など、現地で苦しむ子どもたち、教育者たち、そして彼らを惑わすことになってしまった政府やマスコミの報道に苦しくなりました。

その後、シスターから話を聞き、住職から話を聞き、福島市除染プラザ、福島大災ボラ元GM、福島北高教師、福島の母親など多彩な立場の人の話を聞いてきた。
福島市では故郷を追われた浪江町の役場が一室にあった。
住まいも福島市や二本松市ほか多くの自治体にバラバラ住み、議会や自治体の運営も体をなさなくなっている。

(福島市役所のブリーフィングスペース)
多くの苦悩に、学生たちが涙しながら一生懸命な眼差し、必死にメモを取りながら聞き入る姿、重く受け止めうなずく姿、また新たな福島を見つけたのでしょう。
(桜の聖母のシスターに震災当時の模型で説明を聞く様子)
口々に福島は一様には語れない。多くの福島があり、その一部しか見ることが出来ない。また足を踏み入れここで学び続けることが大切。アースウォーカーズのツアーでしか体験出来ない日々を重ね、彼らの将来が楽しみだ。
さて、連日、被災地ボラのブログをアップしているが、高校生たちのレポートの文字起こしも進み、福島ドイツ高校生交流プロジェクトのブログが昨日アップされたので、下記も重ねてごらんください。
http://ew311.blogspot.jp/2015/08/9.html

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