2016年3月7日月曜日

2016春被災地ボランティア 4日目

被災地ボランティア 4日目
文責:宮崎大学 1年 森谷尚之

今日は、3日間お世話になったカリタス原町ベースを出て、最初に鹿島の一本松を見に行きました。

一本松の近くにある球場にも寄りました。地震当時避難場所だったらしく、海抜が低く、海からもかなり近い場所だったので、多くの人が避難しに来たにもかかわらず流されたということを聞きました。その地区の亡くなられた慰霊碑も球場そばの建てられていて、自分も被災者で友人や家族が津波で亡くなったらどうなっていただろうかという思いで慰霊碑を見ていました。


その後、南相馬市の仮設住宅に行き、被災された方の1人である松野さんのお話を聞きました。地震直後の松野さんが見た、感じたことを生々しく鮮明に話してくださいました。「助かったのではなく、助けられた。」という言葉にとても印象が残りました。もし、少しでも別のことをしていたら松野さんも津波に流されたのかもしれないし、私たちも松野さんの話を聞くこともなかったのかもしれないということは改めて感じました。

また、家族の悩みなど話していただき、家族のありがたみ、親のありがたみを強く感じました。日頃感謝することをこれからも忘れないようにしたいと思いました。

それから宮城県石巻市に移動して、震災当時の被害の様子、5年経った今の姿を見てきました。高速で福島から移動してきたんですけど、宮城に入ると街の様子がガラッと変わり、復興が進んで新しい建物や家が着々と建てられ人も活気づいている印象を受けました。まだまだ、避難場所があったり、地震や津波の傷跡が残っている場所もあったけど、5年経って福島と宮城ではこんなに復興に差があるのかと感じました。原発の影響で未だに家に帰れない人も福島にはいてそういった現状がこれほどの差を生んでいるのかとも思いました。




3月11日の復興追悼イベントで使われる灯篭を少しだけ作り、3月11日の追悼イベントには参加できないけど、追悼の意を灯篭で伝えれたと思うので作業に関われて良かったです。


被災地ボランティアに参加して4日経ちますが、毎日が驚きの連発です。自分が感じたことをしっかり伝えれるように頑張りたいです。




 文責:池山奈帆
 今日は朝、三日間お世話になったカリタス原町ベースを後にして鹿島の一本松を見に行きました。ここは、陸前高田の一本松同様、津波の被害をうけても生き残った松です。


しかし、陸前高田は現在観光客なども多く訪れていますが、鹿島の一本松はとてもさみしく立っていました。また、津波が来た際に、多くの方たちの避難場所となっていた球場の前も訪れました。そこにあった慰霊碑には多くに方々の名前が刻まれていました。10歳にも満たない子供の名前から、80歳くらいの方までとても幅広いかたの名前がありました。ご冥福をお祈りいたします。
 その後、仮設住宅を訪れ、実際に被災した松野さんのお話を聞きました。震災直後の混乱した状況や、実際の写真、エピソードを聞きました。

聞きながら本当に涙をこらえるのが必死でしたし、写真を見るたびに鳥肌が立ちました。松野さんが、自分は助かったというより、助けられたと話されていて、日頃から先祖を始め、周りの人に感謝することは大切だなと思いました。また、そこのサロンに集まってキーホルダーを作っているお年寄りたちにお話を聞いたところ、若い人たちは日中仕事に行ったり、どんどん仮説を離れていくのでやはり寂しいところはあるし、前の家に戻りたいという気持ちもやはりあると話されていました。

 午後から宮城県石巻市を訪れました。ここは、私の印象としてはさまざまな建物が作り直されており、福島に比べたら復興が進んでいる印象を受けました。がんばろう石巻を訪問した際に、ちょうど3月11日に行う追悼イベントで使う灯篭作りを行っていました。


少しの時間でしたが手伝わせていただきました。これまでは、遠い地域でのイベントであった宮城県でのイベントのお手伝いいを少しでもできたというのは自分の中でとても大きな出来事でした。また、隣のプレハブの中で、震災前の石巻の模型が展示されており、改めて津波の大きさを実感しました。
 この被災地ボランティアも折り返しに入ろうとしています。残りの時間を有意義に過ごしていきたいです。





0 件のコメント:

コメントを投稿